○純粋潜在力とは
純粋潜在力とは、与えるということをずっとやり続けたうえでのことなので、与えるという可能性のことです。与えるということと潜在力は別ではありません。より与えるという可能性は永遠に開かれていく最高のところです。最も一番深いところから溢れているときに与えることが、一番与えるという可能性が大きくなります。
今与えている可能性をより広く、より深くというのが通常です。つまり三才の子が与えるのと、四、五、十才と年齢を重ねていくのとでは与えるが変わってきます。それは与えたことによって本人の満足や与えたことによって知った何かが、純粋にその者をさらに与えることに向けていきます。それが可能性です。例えばコップ一杯を誰かに与えたとします。空になって戻ってきます。またついであげたくなりませんか?
そして対象は一人ではなく自分の周囲にいる人と想定すると、いつ終わるのかわからない。与えることに終わりはないのです。
○ 神意識・統一意識
完全に与えることができるのは神意識からです。それまでは何かのために与えています。それはどこかに条件があるからです。
出来るだけ早く神意識のところまでいくためには、何の見返りも期待しないことを一つか二つとかではなくて全部行うとよいそうです。暮らしの全てにおいてそうすることができたら、神意識と言えます。
それは与えることしか考えていない状態。与える喜びしかない。させてもらえるとか、出来る、そういうことにしか喜びがなくなります。自分が常に沸き立ち溢れているので、外側から安心を得ることがなくなります。
与えれば与えるほど深く与えることになります。自分の成長は与えることによって戻ってきたものが表面から集まるわけではなく沁みて溢れるわけなので、沁み込めば沁み込むほど溢れてくるところはもっと深いサイクルになります。最も深いところから溢れてくるのが統一意識と言われているところです。
より深く与えることができるようになると、より満足できる自分がいます。そして一番深いところで与えるをしないと、全部与えるになりません。与えるとは全部与えることです。自分の持っているものはないのです。お金でも時間でも言葉でも笑顔でも何でもいいので、しっかり観て計って与えましょう。
○与え方
与えた時に与えた相手が文句を言うようであれば、与え方が悪いと言えます。
例えば子供の誕生日には、その子の分に合わせて、その子の好きなものを、一番喜ぶタイミングで与えます。相手が自分に過ぎたものを与えられているとわかっていれば、分にあっています。それがわかっていないのであれば与えてはいけない。それだって与えないを与えることになります。
中学生の子が不相応に高価なものを欲しがるとします。不相応だということをその子自身が知っていれば分にあっています。不相応だと思わすにいるのであれば分にあっていません。そのときは分がわかるように育てていきます。
『第二の法則 純粋潜在力の法則 永遠の可能性は自分の意識の最奥にある』
ron:do あいのある暮らし Vol.10より引用


